土山の地に当社の御祭神である「坂上田村麻呂公」が祀られてより、本年平成二十四年で千二百年の意義深い年を迎えました。
当社では五十年の節目ごとに「式年大祭」を斎行し、田村大神様の御神徳の発揚、また境内の拡充整備を行ってまいりました。
この度の「式年大祭」も過去に倣い、四月八日の例祭を挟んで、その前後に斎行いたしました。
祭典および奉祝行事は、全四日間に渡って盛大に挙行いたしました
斎了後、伊勢大神楽講社
山本源太夫氏ほか十五名により「伊勢大神楽」が奉納されました。
田村神社における「氏子日待ち」とは、四月八日の例祭の後に、氏子各組ごとに境内で直会の弁当を食べることでした。
現在はその代わりに、鯖寿司を各戸に配布していますが、今年は式年大祭ということで、祭典が終わった後、氏子が各組ごとに集まって、境内で直会を行いました。
「稚児」とは幼児や乳児の事を指し、神様は幼く清浄な子どもに宿ると言われています。
世間・社会のしがらみや穢れを受けていない清浄な魂の持ち主である子どもは、古来より信仰の対象にもなっていました。
当日は「あずま会館」から田村神社まで約一キロの道のりを参進しました。
土山を中心とする地域より、約七十名の子どもが集まり、式年大祭をお祝いしました。
四月八日は、田村神社が創建されたと伝えられる日で、
毎年この日に例祭を斎行しています。田村神社の創建は、
垂仁天皇四十五年(西暦十六年)四月八日に甲可翁(こう
かのおきな)という人物が倭姫命(やまとひめのみこと)
の生霊をここに鎮祭して「高座大明神」と称したことに
始まります。
それから八百年後の弘仁三年(八一二)に嵯峨天皇の
勅により、坂上田村麻呂公を祀る祭壇が二子の峰に設け
られ、弘仁十三年(八二二)四月八日に現在地に遷され
ています。伝えられて以来、田村麻呂公と倭姫命を併せて
お祀りし、「田村大明神」と称されるようになりました。
また、例祭は郷中祭としての側面もあり、土山町内の神社関係者をお招きしました。
それ以外にも、県内外より坂上田村麻呂公に関係の深い方々や神社関係者、政界関係者にもご参列いただきました。
拝殿前にて土山松寿会の皆様により、謡曲「神歌」が奉納されました。
奉納されたのは、おめでたい行事に奉納される「高砂」という謡(うたい)です。
御鎮座千二百年を祝し、土山町体育館近辺にて神賑行事が行われました。
模擬店も多数出店され、多くの人で賑わいました。
・「水口東高等学校吹奏楽部」による演奏
・「KOUGA彩風舞人」によるよさこい踊り
・「鼓娚」による太鼓・三味線奉納
・「原笙会」による女人舞楽奉納
・「横山たかし・ひろし」と「プリンセス金魚」による漫才
イベント『神人和楽』の締めくくりとして約三千発の花火が春の夜空を彩りました。
屋外ステージから田村神社本殿まで、提灯行列が行われました。
提灯に付けられた「くじ」で抽選会が行われました。
当選者には豪華景品が進呈されました。
田村万人講社は明治時代の初めに当時の田村徳充宮司が、ほぼ一年をかけて滋賀県と三重県をくまなく歩き、 田村神社の厄除け信仰を説き広めたことを起源として、明治十五年に発足しました。
直会では支部ごとに座っていただき、講員同士の懇親も深まる楽しいものとなりました。
夏の万灯祭の「講社大祭」同様、「奉祝講社大祭」においても、世話方・講員お一人ずつ玉串(紅白御幣)を奉って拝礼をしていただきました。
尺八・田代慎山、シンセサイザー・井上政廣、声楽・山北留美の各氏によってコンサートが奉納されました。
田村神社の式年大祭に際し、拝殿改修・本殿造替などに多額の資金が必要となりました。
このため、敬神の念篤き多くの人々より浄財を奉納いただき、ようやく式年大祭を迎えることができました。
式年大祭最終日には寄付をいただいた皆様方をご招待し祭典を行いました。
また、普段から神社の奉仕をしていただいている「田村玉垣会」「敬神婦人会」の皆様もご参列いただきました。
「末廣(すえひろ)」とは扇を優雅に言い換えた語です。要(かなめ)から外に広がる形から、末代までの繁栄を祈る祝儀のものとされています。
この狂言は、狂言の分野では「祝言曲」とされており、人の悪意も失敗も洗い流して、人の世のめでたさに「祝」をあらわす曲目です。